瞑想と闘争

1Q84 BOOK 11Q84 BOOK 2
 
 売れに売れているこの本だが、世間の評価は、毀誉褒貶真っ二つに割れているといったところか。あるものは物語る力の減退を説き、またあるものは物語の魅力を訴える。オウム真理教の尻尾を掴んで社会の暗部を引きずり出したと評価するものがいるかと思えば、正史の「ヤマギシ会」と稗史の「タカシマ」を一対一対応させるような何の捻りもない青写真に鼻白むものもいる。
 小説だって割れている。かたや、凪ぎのような移ろいのない表情を張りつかせているかと思えば怒りに我を忘れると「くしゃおじさん」のように相好を崩す義侠の殺し屋・青豆。こなた、数学教師のサンダルと小説家の草鞋を互い違いに履き、一七の少女を聖化しては「交信する」だめンズ・天吾。目的とサスペンスと謎に満ちたエンターテインメントと、ぐずぐず思い悩んでうろうろ歩きまわる私小説
 世間の割れた評価の帰趨はわからないが、少なくともこの小説では分かれたふたつは溶けあう。青豆と天吾の物語が、水と油、白ワインと酢のような相性の悪さをものともせず、パラレルワールドメタフィクションを蝶番にして交わる。青豆の物語を天吾が書き、天吾の物語の無意識を青豆が発酵させる。天吾に憑いた「去勢の記憶」の向こう側で手をつなぐ十歳の天吾と青豆のシルエットが、この小説の出発点であり、たどり着くべき唯一のゴールだ。
 思想や社会の流転をひとり体現する深田保の個人史が物語上の歴史となる。だけど、その歴史が行き着く先は、関係や構造や祈りや以心伝心といった、核や意味や真実を欠いた表面的な世界。この作品に限らず村上春樹の世界そのものが元来そうなんじゃないか、と首をひねらないわけでもないが、少なくとも彼はそういう現代社会の皮相さをどうにかしたくてこの物語を描いたに違いない。なぜなら、体制が壁となって立ちはだかっていた六十年代の闘争から、体制も反体制も消えてなくなったゼロ年代の瞑想へと至る過程が、現代の袋小路の立場から繊細に詳細に描かれているのだから。
 権力に対する抵抗が権力の条件となるような時代に、闘争はありえるのか。エルサレムにて、卵と壁の比喩で体制との闘争を語った村上は、やっぱり闘争を求めているのだろう。でも、ぶつかるべき壁、当たって砕ける価値のある体制なくして闘争などありえない。
 だけど体制探しは存外難しい。ドルビー社の技術革新が進むにつれ、喧しく鳴っていた闘争の雑音は消えていった。居間のテレビが画素数を増すのに反比例して、暗い現実の彼岸で赫々と燃えていた理想も色を喪っていった。誰もがこぞって参照する大きな物語が死んで、反体制の場末は区画整理されてショッピングセンターに姿を変え、打倒すべき権力の尖塔は摩天楼の森の中に見えなくなった。目の前で爆弾が炸裂し、路地に死体がごろごろ転がっているような紛争地域でサヴァイヴしている人たちならまだしも、国際映像を介して色っぽいあえぎ声を発するヘベレケ大臣の醜態を見て、見よ、あれが体制だ、と声高に叫んだところで居酒屋政談のつまみにもなりやしない。ましてや、コスメと岩盤浴プラズマテレビに馴染んだわれわれが、生産様式の転覆など許容するわけがない。「他者」なんてこのご時勢、そうそう見つからない。小説じゃあるまいし。
 だからごくふつうの一般人はなくなってしまった闘争の代わりに「瞑想」に浸る。瞑想なら誰も邪魔しないし、誰も煙たがらない。アフリカで自分探しをしても、狂信的な宗教に松果体まで浸っても、それが人を巻き込まない限り、外界にこぼれださない限り、許容される。趣味や教養がタコ壺化し、音楽はひとりひとりのi-podの中で孤独に鳴り、本はポケットの奥深くにしまわれる。瞑想のなかに他者はいない。ただ肥大化した自我があるだけだ。
 『1Q84』では、そうした内なる瞑想の世界が新たな体制として描かれている。空気さなぎのように、がらんどうの内面を包む容れものとしての人間、ミームを運ぶ乗り物としての人間。互いに関係せず、ただ内側に広がる空虚の海に自我理想を漂わせるだけの終わりなき自己探求。体制は外にあるんじゃなくて、心裡にある。
 だから、春樹はからっぽの瞑想を新たな体制として同定しそれと向き合い、そこに闘争を見出そうと試みた。天吾は自分の内側の世界を瞑想的に探求し、イメージに留まっている青豆を闘士として言語化していく。物語のなかで青豆は必殺仕事人のような勧善懲悪の闘争を生きる。瞑想と闘争とが微妙なテンションを維持しながら並走しているようにみえるBOOK1はおもしろい。
 ところがBOOK2に入ると、物語は急激に失速し、細切れになったイメージがすかすかの物語の隙間を埋める。
 青豆の敵だったはずの大いなる存在は、その実中身はがらんどうで強靭なだけが取り柄の容れものだったことが明らかになるし、青豆を実の娘のように愛し、彼女に刺客の使命を与えていた領袖に対する信頼も揺らぎ、銃口を自分の口蓋に押し当てる。
 天吾は天吾で、疎遠になっていた父親に会いに行くも血のつながった父ではないことを察する以外収穫はなく、一七歳の天才少女「ふかえり」と交わり、最後は、義父のいなくなったベッド、いやそもそも誰も存在しなかった空白の前で自分の物語をナルシスティックに語る。
 好意的に解釈すれば、天吾と青豆の交錯、闘争が「闘想」に、瞑想が「瞑争」にずれていく混濁、そういう脱構築的な地点をこの物語は目指していたのだろう。それとてありふれたメタフィクションでしかない。メタフィクションどころか、最終的にすべては天吾の「私」のなかにもう一度回収される。テンションを維持しながら並走していた青豆と天吾の物語は、混交の果てに、前者を後者が殺す形であっけなく閉じてしまう。青豆が実際に死んだかどうかは明らかにはされていないが、少なくとも青豆の物語は死んでしまっている。そのように仕向けたのは、物語の最後で青豆の(自死の)運命をこれから書くことをひとり誓う天吾であり、天吾の物語を書いた春樹自身だ。
 決定不能の隘路に囚われ出口を見出せない青豆が、自分の体内へと銃口を向けるとき、それは恐らくは自分自身のなかに巣くう権力、あるいはそれを内蔵している自分自身の身体に向けられているのだろう。だが、青豆の自死は、他者が跋扈し体制が屹立するような血沸き肉踊る物語の死であり、闘争の瞑想への還元でしかない。
 ミステリや冒険小説のように他者と対峙するエンターテインメント小説を、私小説を源流とする純文学の伝統が消費していくような不毛さだけが残る。まるで、手に負える程度に矮小化されたエンターテインメントの滋養を、純文学が生きながらえるためだけに搾取しただけ、とでもいうような。
 いや、これは批判にはなりえない。村上春樹とは元来そういう作家なのだから。そういうナイーヴな自我の物語を時代が求めているのだから、彼はきわめて安全な作家なのだ。体制? 闘争? 春樹がそんなもの上手に描けなくても、彼以外の誰も困らない。彼が危険な作家になってしまったら、読者が戸惑うだけだ。
 春樹ファンを喜ばせる仕掛けは健在だ。『1Q84』に張り巡らされたイメージの網、洒脱な比喩、老成したギャグの数々はどれをとってもすばらしい。空疎でスノッブなションベン臭い設定も、一七歳の少女が白ワイン好き、など多少の残尿を除けば、ほぼ排尿されている。ディーテイルには隙がない。しかし、一度死んだ大きな物語はもう一度殺される。残るのは空疎で心地よい響きだけだ。
 

看護婦は言った。「看護婦になる教育を受けているときにひとつ教わったことがあります。明るい言葉は人の鼓膜を明るく震わせるということです。明るい言葉には明るい振動があります。その内容が相手に理解されてもされなくても、鼓膜が物理的に明るく震えることにかわりはありません。だから私たちは患者さんに聞こえても聞こえなくても、とにかく大きな声で明るいことを話しかけなさいと教えられます。理屈はどうあれ、それはきっと役に立つことだからです。経験的にもそう思います」(2 490-91)


 『1Q84』の受容を賛否のふたつに分けるのは、(無内容な)響きを容認できるかどうかに委ねられている。物語でも、物語の死に立ち向かう「喪の語り」でもない、癒しの響きを。